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中津江村回顧録
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うたう村(中津江村の記憶)
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2006年5月5日
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中津江村は大分県の西南に位置し、福岡県と熊本県の県境に近い、森林率93%人口1300人ほどの過疎化が進む村です。2002年FIFAワールドカップの時カメルーンチームのキャンプ地で「中津江村」は全国的になりました。しかしこの中津江村は明治〜昭和中期には鯛生金山でかなり栄えていたのです。大正13年には年間産出量は1000kgを超え、最盛期の昭和8〜13年頃には人口は村史上最高の8000人に膨れあがり、山間の村(金山付近)には映画館や飲食店・旅館・病院などが所狭しと建ち並んだと云います。大東亜戦争と共に一時休止させられますが、昭和31年再開され国内第三位の金山に返り咲きます。昭和40年以降新鉱脈を発見出来ず採掘量は減り、昭和47年70年の歴史に終止符を打ちました。
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私はこの中津江村で'83から'84 3月まで約1年数ヶ月を過ごしました。
24歳の頃の事です。 当時Music-Cityの拠点が中津江村(高本氏の実家:高本電気店)にありましたので必然的に一時的にではありますが村人になったわけです。そしてこの山奥から九州各地の現場に向かいました。日田まで出るのにトラックで40分、そこから筑後地方まで1〜1時間30分。高速道路はまだ日田まで伸びていませんでしたから福岡へ行くには386号線を朝倉街道経由で2時間弱。 今思えばとても不便な生活をしていたものです。 最初の数ヶ月間は、現在「AMELIO」代表の宇野氏とふたりで住み込み生活。最後の数ヶ月は八代から山本君という新人がやって来ました。この頃鯛生金山が「鯛生金山家族旅行村」として観光化され、オープン前には松本清張「西海道談義」がロケにやって来たりしました。撮影用照明電源の設営をやらされましたが、誰もいない暗い坑道に発電機を持ち込むのはなかなかスリリングな事でした。 |
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当時村の人口は1500人。
若者は中学を卒業すると村を出ます。村には小中学校はありますが高校がありません。そのまま村以外の土地の高校へ進学しそこで生活を始めます。村に帰ってくるのは林業を継いだ者か役場に就職した者などごく少数です。当然のこと過疎化に拍車がかかります。そこで「せめてお盆くらいは里帰りしようよ」とのノリで始まったのが、今年(2006)で27回を数える「中津江村ミュージックフェスティバル」でした。1980年8月14日の事です。ちなみに中津江村の成人式は1月の成人の日ではなくお盆に行われます。正月は帰省するでしょうが成人式の日まで残れませんからね。1度加川良さんが記念講演と称して唄った事もありました。 で、記念すべき第1回中津江村コンサートは音響屋としてでなく客として参加しました。当時遊び仲間だった「西田恭平」氏が出演するというのに加え、屋外コンサートというものがまだ珍しく「どんなもんかいな?」と期待しつつ出かけました。あいにくの土砂降りの中でのコンサートでしたが、記憶に残っているのは雨対策に追われているステージスタッフの慌ただしい動きと、傘越しの隙間からわずかに見えるステージくらいでした。2回目からはSET-UPのスタッフとして参加しました。ゲストだった「宇崎竜童&ダウンタウンブギウギバンド」のオペレーターがSET-UP持ち込みスピーカーのほとんどをぶっ飛ばしやがった事は一生忘れません。おまけに村一番の「中津江小町」を東京に連れ去り終いにゃ結婚してしまいました。これは仕方ないか・・・(-_-) 昨年('05)からまたPAのお手伝いに遊びに行くようになり毎年楽しみであります。 |
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'84当時、高本電気店がある「栃野」という場所は村一番の繁華街?で、電気店の隣はガソリンスタンド、通りの向かいには病院、その左横には「長谷商店」と並び、ガソリンスタンドの前が三叉路になっていて、右向こうには通称「よろずや」なる何でも売っているこじんまりとした「スーパー」がありました。そこから金山の方へ伸びる道沿いには郵便局や商店が並んでいました。ガソリンスタンド前の三叉路から前津江村方面へ80m向かうと赤い橋がありますが、その橋のすぐ横に「花の木」というみんなの集いの店がありました。昼間は喫茶店で夜はスナックという田舎にありがちなお店です。ここのおカミさんが最高で、若い時にゃすっごい美人だったろう面影を残す、30歳ちょい過ぎのママでした。高本電気店もそうですが、金山で栄えた頃は「旅館」をやっていたところが多く残っていて、この花の木も例外なく旅館だったようで母屋はデカい建物でした。この店には住んでいた1年間で相当な回数通いました。入ってすぐ右手に小さめのテーブル(3人掛け)があり左に10人も座ればいっぱいのカウンターというシンプルなつくりでした。そういやこの店で「音つばめ」のライブをやったこともありましたっけ。でも店ライブの原点はここにありです。
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今でも高本電気店は健在ですしご両親共にバリバリ元気でいらっしゃいます。
当時いつ何時に現場から戻ろうと、おばぁちゃんの一言は決まっていました。 「ご飯食べたね?おなかはすいてないね?」で、起きているときはいつでも空腹という「典型的若者」な私には何とも心強い言葉だったことでしょう。 あまり冷えていないビールをグラスに勢いよく一気に注いでくれるので泡だらけのビールが好きになりました。納豆を食べれるようになったのもここ中津江村でした。「ありゃ丸山さんな納豆食べきらんとね?」の一言に触発されたのか定かでありませんが、無理して食べてたら好きになり、泊まりの仕事で夜の街に出たりすれば積極的に「納豆系」を攻めていたのもこの時期です。特に好きだったのは日向の居酒屋にあった「納豆揚げ」で、海苔で納豆をくるんでコロモを付けて揚げたヤツです。こりゃたまらんうまさでした。当時どこの街の居酒屋であろうと「納豆揚げはなかですか?」と確かめていたもんです。 |
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高本氏から、牛飼い少年やきゅうり少年と呼ばれていた若者がいました。地域密着型の地元に残った人々です。牛飼い君は隣村の「上津江村」の青年でおやじが県会議員という、体はとにかくでかいが典型的な「おぼっちゃま」性格でとても優しいヤツでした。「きゅうり少年」はまさしく「農業」で生きている青年でその素朴さがみんなを惹きつけていました。村の青年に悪人はいなくて、田舎に生きる逞しさと自然と共に生きる優しさを自然と身につけているようでした。これは村民全員に共通する事かもしれません。世を騒がす凶悪事件などよその世界の出来事です。中津江村では考えられない事だと思います。
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| 続く・・・|戻る |