しばらく
博多ラーメンの王道
2011年3月3日復活!西新本店!!!
何と、復活してました「しばらく西新本店」
旧本店から西へ30m、焼き鳥屋さんの横のビル1F。

読者の方からメールをいただき店長だった方が「重留店」を開き、昔のしばらくっぽいですよとの事で、ネットで調べたら西新店が3月にオープンしたことを知る。
食べたくて食べたくて、、、西新まで車を飛ばして行って参りました(笑)
息子さんと奥方健在!そしてバイトの子達がんばる!
良い感じでした。
そこにある事の意味は大きいです。
いろいろ大変でしょうが次世代へと引き継いでいってください。
2010年6月倒産!

博多ラーメンの老舗であり、1975頃から食べていて、オヤジになった今でも博多では一番好きだった(懐かしい)店でしたが閉店してしまいました。

<YOMIURI ONLINEから引用、、、2010.6.10

博多ラーメンの有名店の一つ「しばらく」を経営する「キッズ」(福岡市)が
自己破産申請の準備に入ったことが10日わかった。福岡市早良区西新と
同市・天神の直営2店はすでに閉店しているが、フランチャイズ約10店は営業を続ける。 帝国データバンク福岡支店によると、負債額は約5000万円とみられる。 同社は1953年の創業で、福岡を代表するラーメン店として根強い支持を得た。 2006年9月期には約1億4000万円の売上高を計上したが、 大手チェーンとの競争激化などで、経営が急速に悪化したという。

私に博多ラーメンを教えてくれた「しばらく」
そして優しかった頑固親父。
替え玉の存在を初めて知った店。
そして8個替え玉すれば無料になるという遊び心。


思うに、、、
ラーメンで視聴率が取れると分かると、マスコミは時の人を創り出すべく、あの手この手で番組を作りあげ、あたかもラーメン業界が飲食業界における花形かのように見せかけ、いくつもの人気店を創造し、それに群がる「ラーメンフリーク」を生んで来た。
もっとも、若者に夢を与え職業としての「場」を開いた事は認めるし、今でも沢山の若者がラーメンの道で成功したい!と努力していることは悪いことではない。
しかし現実としての「ラーメン」はどうなのか?
うまいかまずいかは人が判断することだからここで問いはしない。
お金が欲しいから店を開くのか、おいしいラーメンを食べていただきたいからラーメンを作るのか? 
結局、高い利益率を求めた結果が単価に表れる。
一杯いくら儲けたいのだ?
儲けをサービスや現場に還元するならまだしも自分の利益にするなら本末転倒。
職人は人様以上のモノを望んではいけない。
つまり自分で動いた分のお金を受け取ればそれでよい。
お金はお金を生んでくれるかもしれないが長続きはしない。


云いたいことは一つ。
ラーメンの事だけまじめにやってたらそんな負債抱えませんって。
抱えたとしても誰かが手をさしのべてくれるもんです。

1986年に息子さんに全権を渡し引退され、1993年63歳で他界された初代外村泰徳氏はこの事態をどう思われるでしょうか。

今は無き公式WebSiteにあった先代が記した「忘備録」を先代に敬意を表しここに残したいと思います。(問題があればいつでも削除します)

1953年6月8日 終戦後
終戦後、衣納袋1袋、無料乗車券1枚、数十円のみを持ち 帰る。
幸い 命あればこそ 帰れることは嬉しい。
 
さて復員したけれど終戦3年後にもなれば仕事は全然なし。
木炭トラックに乗り山奥に材木出し、親戚の世話で郵便局、家具製作所、素麺製造所、職を転々とするが、どれも親、妹を養うには給料安し。
 
その頃炭坑が一番景気が良く、八幡製鉄所に就職。
 
大落盤があり、19名死亡。危険なので辞める事にした。
給料は良く、米の配給が食べて残り、余りは売っていた。
1年2ヶ月だった。
 
後 博多へ出る。
 
1年7ヶ月間 中州でリンタク。
朝鮮戦争が始まり まだタクシーも少なく、米兵相手に儲ける事ができた。

文面からすると、1948年に復員され1年ほどいろんな仕事を転々とされ、矢幡製鉄所(1年2ヶ月)〜中州でリンタク(1年7ヶ月)を経て、1953年6月対馬小路で店を始められたようだ。この店舗でラーメンがメインだったのかは不明。

1953年6月9日 開店
昭和28年6月9日
屋号「しばらく」で 福岡市対馬小路、大浜特飲街で店舗開店する。
知り合いが多いので繁盛すると思いきや、知り合いからお金をとれず、掛け倒れ。
中州でなら良かろうと思い、店舗でなく屋台を那珂川の春吉橋で出すが、やはり結果は大浜も中州も同じこと。掛け倒れする。

ここで云う「大浜特飲街」とは「大浜特殊飲食店街」の略で、所謂【赤線】と呼ばれた地区のことだ。

1956年6月9日 西新
行き先に困り途方に暮れ 思案した結果 今から先の将来は西区方面にしか発展する処なしと判断する。
ただし、西新町は早良、姪浜、城の原、地行と博多でも指折りの柄の悪い処だが、乗るか反るか、大浜・中洲での掛け倒れの経験を覚悟で、同じ結果に終わっても後悔はしないと腹に決めて、笛吹き(チャルメラ)6名を連れ 西新町、城南線に屋台を出す。

大浜、中洲でもそうだったが、商売始めは笛を吹いて回ると按摩さんとか焼き芋屋とかに間違えられ、慣れるのに半年かかる。
夕方5時より、朝の1番、2番電車が通るまで一晩中屋台で頑張って 15〜20杯の有様で笛吹きの出前でどうにか食い繋ぐ。

掛け倒れしたのに3年も続いた事には驚く(笑)
6月9日は何か特別な日だったのでしょうか?

1957年4月14日 結婚
隣の屋台「即席天麩羅」柳川さんの奥さんの妹さんが岩田屋に勤めていたが、時々隣に来ては良く働いていた。
普通 若い娘さん達は屋台などには敬遠して加勢どころか近寄らない。
だが実に一生懸命働いている姿が目に焼きつき 思い切ってデートを申し込む。
あとは縁あって「昭和32年4月14日」に結婚。

6月9日 100杯
一年後より100杯を越し、どうにか商売になる様になったので 熊本の田舎より、母と妹を呼び数年ぶりで一緒に暮らすようになる。



1958年3月21日
城南線の屋台では朝の電車の通るまで働いた。
静香は長男の貢一が産まれる前の日まで頑張った!
無事 長男貢一(現2代目)の誕生。

 

1959年6月18日

屋台の場所にスーパー丸栄が出来るということで 僅かな立ち退き料を貰い 現在の場所に移転する。
昔 金物屋さんの後を借家で借り店舗として開店する。

このころから先代まったく変わってなかったと云うことだ。

1962年9月10日 仕事
人様は商売は儲かると一言で片付けるが、以ての外。
私たち夫婦は一日16〜18時間は働いた。

ただ眠る時間が欲しかった。
出前の関係で常備店員は5〜6人は雇っていたが 店の休みは月に一度。
店員達は日に2度の交代制にしていた。



1977年10月10日 長男の結婚
昭和52年10月10日、長男貢一の結婚式。
 
私たち夫婦は どうにか成人させた矢先のあまりにも早い結婚話に驚く。
仕事と子育てにひと段落着いたばかり。気持ちの整理に手間取る。
夫婦すぐにも生活するには 今の店を継ぐのが手っ取り早いと思い、留美さん(お嫁さん)の気持ちを確かめる。
サラリーマンの家庭と商売人の家庭とはすごく開きがあり 生半可なことでは出来ぬと訊ねると 留美さんは「出来るだけやってみる」と答えてくれた。
 
商売人の嫁というのは 夫、店、子供、家庭・・と1人何役もやらねばならず、店が繁盛し成功するしないは嫁の双肩にかかっていると言っても過言ではない。 頑張ってもらいたい。

 

1980年6月24日 母(キヨ)の永眠
苦労の掛け通しだった婆ちゃんはビル(現在本店ビル)の完成前に血圧低下から肺炎になり、昭和55年6月24日午前6時72歳で他界する。
元気なうちに一度、満州鞍山に連れて行ってあげたかった。
たった1つのこころ残りだ。


 

1986年4月4日 勇退ご挨拶の看板を出す

ご挨拶申し上げます。私開業以来早や33年になります。此の間色々な事があり 一つ一つが今では懐かしく思われてなりません。
私は頑固親父一徹、独自の営業方法でお客様には大変ご迷惑をおかけした事と思いますが 私は私なりに信念を持ってラーメン作りに専念したつもりです。
私事で申し訳ありませんが、近頃体調に自信がなく、長時間の立ち仕事に苦痛を感じる様になりました。
勝手では御座いますが、幸い子供もどうにか成長し 私に負けない程の腕に自信をつけた様ですので、安心して子供たちに実権を譲りたいと思います。
私と同じく無骨者ですが、今まで以上の御愛顧、御引立の程 心からお願い申し上げます。
 
昭和61年4月4日          頑固親父 

  

1993年11月10日 先代の永眠
その日は突然やってきました。
家族も周りの方々も誰も予想が出来ない出来事でした。
 
大好きなお酒を飲んできて良い気分で先代が閉店後の深夜、本店に入ってきました。
スープの番をしていた2代目夫婦がスープが炊ける間に近所の初代宅まで送っていく事になりました。
 
家に着くと昔話や家族の話で楽しく盛り上がり気づくと深夜2時半。
そろそろスープが気になった2代目夫婦は店に戻る事にしました。
 
翌朝10時頃、先代の妻・静香からの電話
「お父さんの様子がおかしいとよ・・・」
 
駆けつけると布団に寝たまま先代・泰徳は永眠していました。
推定時刻は午前3時半。あんなに楽しく盛り上がったほんの1時間後です。
 
享年63歳。誰も予想の出来ない出来事でした。
苦しみも無くまさにぽっくりと、本人の希望通りの死でした。
 
後に不思議なことに商店街や近所の方々が口々に
「2〜3日前にウチに来て挨拶して行ったよ」
と言っていました。本人は知っていたのですかね?

福岡市早良区西新
2003.12.25


公立高校に落ちた俺は、西新(福岡)の西南学院まで通っていた。電車と路面電車を乗り継ぐこと1時間半・・・1976年頃の話。

1年生当時、生粋の博多人という同級生とラーメンの話で盛り上がり、「ラーメンは絶対久留米がうまいに決まっとると!」という俺の言葉に「そんならここのらーめん食うてみんしゃい」と、連れて行かれたのが西新商店街にある「しばらく」でした。
まだ西新岩田屋があるはずもなく、昔ながらの商店街の雰囲気がいっぱい残るいい通りでした。

当時、星一徹みたいな頑固おやじが仕切っていたこの店のラーメンを食べた瞬間「博多のラーメンは久留米に原点があるんだなぁ」と妙に子供心?に感心ししたことを覚えている。当時ラーメン1杯180円〜200円!

とにかくうまかったよぉ、小さい器に山盛りの麺(大盛り)、そして「擂り胡麻」を山のようにかける。そのころ久留米には「胡麻」をラーメンに入れるところなんてなかったもんね。それもどうぞご自由にって感じで無造作に置いてある。入れましたよぉ〜、胡麻ラーメンになってしまうくらい入れました。

麺もうまかった。ツルツルって感じの麺。久留米のはボサボサってのが多かったからこれにも感激したなぁ・・・。(何か久留米が負けてるような言い方だな・・・)

そんで、歴代大食漢の方々の名前と替え玉記録が壁に掛けてある、「修猷館高校の○○太郎くん8杯」とかね。この替え玉ってのもちょっとしたカルチャーショックだった。久留米にはなかったもんね。個人的には嫌いだけど。

まぁとにかく高校生の頃はよく食った。
今でも時々食べに行くけど、星一徹はもういない。
たぶん娘さん夫婦で切り盛りしているみたいだ。先日行ったらそのまた娘さんのような子も手伝ってた。女系なんだろうな・・・。

ラーメン500円 チャーシューメン780円(替え玉120円)

2006年12月
たぶん1年ぶりくらいの再訪!この日「餃子」がうまいことを発見する。
スープは薄めになっていて 先代の作るラーメンと比べるとインパクトが無い・・・。