清陽軒(久留米)
▲▼お知らせ▲▼
2009年4月、清陽軒復活!
・2008年11月、来春の再開に向けテストキッチン始動!詳細はこちら
2006年2月12日をもちまして一時閉店しました

戦後すぐの明治通り
現在の店舗
昔の味を追求する、超真面目ラーメン。

まずは清陽軒の歴史を紹介しましょう。
それは戦後間もないころの話・・・。(昭和20年ころの話)
台湾から引き揚げてきた飯田耕作氏が出身地の富山に帰られたのが昭和21年のこと。その後紆余曲折あり昭和26年奥方の故郷久留米に戻られラーメンの手ほどきを受けたのがきっかけで屋台の世界へ入られることになる。最初は野中町の住宅街で営業されていたが、27年(1952年)すぐに第一勧銀(現みずほ銀行)あたりに移られる。この頃は七輪に練炭、釜は一斗ガンで炊き出していたらしい。そしてまたすぐ縄手(JR高架付近)へ移られるが昭和28年の水害で屋台そのものを流されてしまったらしい。それにも負けずすぐに営業再開!戦後復興に向け日本全国民がひとつになって歩み始めだした頃の話。

久留米のゴム産業で働く人々や、繊維産業の問屋街に出入りする人々のいわば社交場的な意味を持つ屋台。どこもそれはそれは繁盛していたのだろう。飯田氏の屋台も例外ではなく大繁盛だったに違いない。猫の手も借りたい状況だ、必然的に妻照子さんの元へ、弟さん2名が手伝いに来たのだろう。その弟たちの名前を「浩」と「昇」と言う。現在の「清陽軒」と「大砲」の初代店主だ。2人とも1930〜34年の生まれだから、まだ15〜18歳の頃の話だ。

当時どうやってラーメンを作っていたのかを清陽軒の現店主に聞いたところ、「おやじから聞いた話やけどね、その頃釜は無く一斗ガン(18リットル入りの鉄で出来たカンカン)に骨をぶち込んで薪でガンガン炊きよったげなばい」だそうだ。で、グルソウ花盛りで「好かん客が来るとわざと入れよらんやった」し、客の方から「いっぱい入れてくれんの」という注文まで出ていたそうだ。とにかく物資が十分無かった頃、グルソウに頼るしかなかったんだろう。

浩さんと昇さんはその後も飯田氏から手ほどきを受け、翌29年(1954年)三本松公園の西側に『清陽軒』(浩さん)を、明治通り松竹前に『大砲ラーメン』(昇さん)を屋台として始められる。
それから、昭和32年(1957年)飯田さんは突然生まれ故郷の富山へ帰られてしまうのであります。
そして何故だか「南京千両」という店名で開業されるのである。
もちろん現在も息子さんらの努力により健在なのです!
そして昭和38年(1963年)「浩さん」は本町ロータリー西南に店舗として移動し、「昇さん」も昭和42年(1967年)護国神社前に店舗を出される。
清陽軒はその後(1987年)櫛原バイパスへ移転するも、浩さんの隠居生活にと共に、長女婿(福崎芳治氏)が継続するが1999年に閉店してしまう。

同時期に、次女の婿である一木さんは大龍ラーメンで修行するのだが、どうしても清陽軒の味を忘れる事が出来ずに、浩さんの門戸を叩くことになる。櫛原店へ移動構想中のこと。櫛原バイパス店開店後、空いていた本町ロータリー店舗を譲り受け「清陽軒」として暖簾分け。その後ビル売却のため現在の大善寺へ移転する(1993年)。
そして一番下の弟さん(英人さん)は久留米で屋台(英ちゃん)開業後、北九州に移られ『香月ラーメン』(後に清陽軒)を開店。ご子息が跡を継いで2店舗で営業していたが閉店してしまう。(※リンクは切れています)

要するに清陽軒と大砲はスタートは一緒だったのです。

戦後混沌とした時代に乱立し、百店余もあった「屋台」の中から、確実に生き残っていった店というのはやはり「味」だったのでしょうか? 店主の前向きの考え方だったのでしょうか? あの時代に今のようなマスコミに支配された未来なんて想像すら出来なかったでしょうし、今を生きる事で精一杯だったはずだと思うのですよ。
でも歴史ってこんなもんなんでしょうね。

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で、肝心の清陽軒とラーメンの事・・・
以上の事から見てみますと、元祖清陽軒とは全く別次元の店と云う事になります。独立する時、先代から「屋号はおまえの好きにしていいぞ!清陽軒に拘る必要はなか!お前はおまえで勝負しろ!」ということを云われたそうなのですが、看板借りる方が手っ取り早いと思ったのか、結果的に清陽軒ののれんを継ぐ事になったわけですね。

で、ラーメンはと云いますと・・・。
はっきり云いますと、おりこうさんなラーメン・自己主張していない・しっかり豚骨の旨みがある・塩気やグルソウが少ない・ラードを使っていない・・・。これだけ読むと何やら味気ないラーメンのように感じるかもしれないが、全くその通り!で、最近流行のラーメンの味に慣れている(好きな)人からすると「インパクトのない味」に感じると思います。
がしかし、これに慣れてしまうとハマってしまうんですね。よその店の味がどぎつく感じてしまうんです。言い方を換えれば「健康ラーメン」とでもなるんでしょうか?

昔の味を追求しているとの店主の弁ですが、昔はもっと乱暴な作り方だったと思うのですね。お湯を沸かし骨をど〜んと突っ込みグツグツ煮たらハイ終わり!みたいなね。もしかするとその人の性格が出るのかもしれません。大酒飲みで無鉄砲、喧嘩早くて乱暴者、それでも細かい部分を感じ取る繊細な感覚、好きな事にはとことんこだわる性格。
音楽でも同じなのですが、きちんとまとまりを考えて弾くギタリストなんか面白くないんですよね。譜面通りっちゅうか毎回同じ演奏出来るヤツ・・・。それより二度と同じ演奏なんか出来ません、毎回気分が違いますから同じフレーズ弾いても微妙に違うんですよねってヤツのギターはワクワクするちゅか人間的ちゅうか気持ちのよいものです。やっぱ何事にも性格は出るものなのですね。
ラーメン
チャーシューメン
ワンタンメン
2005.4.27
昨日久しぶりに行きました、汗をかいていたこともあり「ちょい塩辛で」と注文しましたところこれがまたいける! 何のことはない塩気が足りないだけだったのです。もちろん個人差はありますから「今のままでよい」とか「いやまだまだ足りない」といろんな意見があって当然なのですが、元来他店に比べ塩分がかなり押さえられているこのラーメンは、「何かが足りない」気分にさせられてきたのですがこれなら大丈夫。スープの出来に一喜一憂するよりも手っ取り早く安定させられるのでは?
塩分の多い他店のやり方のポイントが少し見えた気がしました。
2006.2.13
1947年から続いた「清陽軒」の灯りが消えました。閉店です。
かたや行列の出来る人気店になった「大砲」とは、やり方的にまったく正反対の道を歩んで来たわけですが、廃業するまでに落ち込んでいた売り上げに対して、彼の性格上打つ手無く閉店していくのを見ると「これでいいのか?」と声を荒げたくなるのも仕方ありません。根っからの職人気質だった店主は時代の波に乗ることを頑なに拒否し続けました。店舗を客好みにすることは彼の意志に反することだったのです。サービスという行為からは完全にかけ離れたところに彼の意志はありました。せからしかことはしたくなかったのです。すべてに共通する彼の持論。「俺の作ったラーメンをうまいと思う人にだけ食ってもらえればそれでいい」
久留米ラーメンの歴史の中で重要な位置を占めるこの店の暖簾を、こうも容易く降ろしてしまうところを彼はどう考えているのでしょうか?まったく惜しいことです。